「あらすじ動画」


ストーリーが良く分かる「あらすじ動画」はYouTubeチャンネルで公開されています。

動画は01~07まで7本あります。

公演パンフレットより


今から約1200年前平安時代初期、東北地方には中央の朝廷から蝦夷と呼ばれる人たちが住んでおりました。そんな彼らは、豊かな自然とともに平和な暮らしをおくっていました。

 

780年(宝亀11年)伊治の鮮麻呂の乱からこの物語は始まります。僅かの護衛で伊治城に入る陸奥 按察使 紀広純と牡鹿郡  大領 道嶋大楯の首を打つので、護衛兵を撹乱してほしいと胆沢の蝦夷の長である阿久斗のもとに、鮮麻呂から使者が遣わされました。これを受け、阿弖流為は伊治城を攻め、見事計略を成功させます。 同時に、兄弟の契りを交わした軍師母禮、忠臣飛良手を得たのでした。一週間後、物部館に、主だった蝦夷の長が集まり、兵団を編成し阿弖流為が纏めることを決めました。

 

794年(延暦13年)平安京に遷都を行った桓武天皇は、砂金が取れ、よい馬の育つ東北地方 へ支配を広げていきました。坂上田村麻呂は 副征夷大将軍として、794年(延暦13年)約10万の軍を率いました。また、征夷大将軍として、801年(延暦20年)には、約4万の朝廷軍を率い、蝦夷軍と戦い、その戦果を朝廷に奏上しました。 その後、田村麻呂は802年(延暦21年)には 胆沢城を造営し、胆沢地方の支配を確固たる ものとしました。

 

一方、朝廷軍と戦ってきた蝦夷軍はたび重なる戦いにより多くの戦士と仲間を失いました。そして戦場となった陸奥が子や孫の代まで戦をしなければならないことに悩むようになります。また、戦場となった農地は荒廃し、人々の生活は大変苦しい状態になっていきました。このような状況に胸を痛めた阿弖流為は、郷土の人々の暮らしのことを考え、苦渋の選択と決断をしたのでした。

 

802年(延暦21年)4月25日母禮とともに仲間 五百余人を率い、田村麻呂に降伏しました。 7月10日、田村麻呂は首領 阿弖流為と副将 母禮を率い、京都に帰還しました。田村麻呂は、武勇と 度量に優れた二人を東北の経営に登用すべく、朝廷に助命を嘆願しました。しかし、公卿たちからは、「蝦夷たちは野獣の心を持つ者たちだから、虎を野に放つものだ。」と強く反対されました。

 

日本紀略は、その辺りのところをこう伝えています。 「将軍等申して云ふ。此の度は願ひに任せて返し入れ、其の賊類を招かんと。而して公卿論 をおさえて云ふ。野性獣心、反覆定まりなし。たまたま朝威に縁りて、此の梟師を獲たり。縦へ申請に依り、奥地に放還するは、いふ ところの虎を養ひ患を遺すなり。即ち両虜を捉へ、河内国 杜山にて斬る。」 

 

田村麻呂の願いはかなわず、阿弖流為と母禮の 二人は、同年8月13日、河内の国 植山(現在の枚方市宇山町)で処刑され牧野に葬られたといわれています。最期を迎えようとしていた阿弖流為は、高台から望む豊かな大河、淀川の景色が、 自分の故郷である日高見の国 現在の岩手県 奥州市を流れる北上川(日高見川)とだぶって見えたのではないでしょうか。